歯並びが悪かった僕は、都心の大学病院へ通っていた。
その日は学校を午前で早退し、一人でバスに乗って1時間近くもかかる病院まで行った帰りだった。
小学4年だった僕は歯の病院ごときで早退できたことが嬉しく、特別な午後の感覚を楽しんでいた。
福岡都心のバス停には、様々な行き先のバスが次々とやって来た。
バスが来る度背伸びをして番号を確かめた。
角を曲がってバスが来た。
1時間に1本のバスは僕を乗せ、田舎へ向かって走り始めた。
一人で都心まで行くようなことは初めてで、無事任務を達成して少し大きくなった気がした僕はバスの一番前に座っていた。
一番前に座るのは、バスが大好きだからというわけではない。
いや、むしろ嫌いだった。
それは酔うからだ。
横の景色を見ているよりは前を見ていた方が景色の動きが遅く、酔いにくいからだった(そう言われていたし、そう信じていた)。
一番前の座席でしがみつくように前方の景色を見ている少年の姿を微笑ましく想像されるかもしれないが、当人はいたって真剣だった。
握りしめた整理券はくにゃくにゃになり、やがて無意識のうちに巻物のように丸められたり折られたりして、気づいては再び平らに戻された。
「どこまでいくの?」
突然、運転手がマイクで話しかけてきた。
振り返ると車内に人影はなく、乗客は僕だけになっていた。
「一番田、、です」
運転手はマイクを外して、すぐ側にいる僕に向かって話しかけてきた。
「一人で九大病院まで?すごいなぁ〜」
感じのよい運転手だった。
田舎町のバス停をどんどん通過しながら走る僕と運転手だけのバスは、気持よかった。
少年ながらこの状況を『お得だ』と思った。
「一番田から家は遠いのか?」
「城山と一番田の間くらいです」
やがて、葉をびっしりとつけた大きなイチョウが立つ道端にバスは止まった。
そこは学校の帰り道、いつも近道として通るあぜ道の入り口でバス停からは程遠い場所だった。
運賃を払いお礼を言ってステップを飛び降りた。
勢いよく去ってゆくバスにもう一度ぺこりとお辞儀をした。
用水路のあぜ道を家に向かって歩き始めた。
拾った小枝でピシピシと草花を叩きながら、『ぼくんち前』と言ってみた。
嫌いだったバスも好きになれるような気がした。