ありけん日記


有田健太郎の日記、エッセイ、フォトギャラリーです
by KeN-ArItA

待ち人の東屋

木々が途切れた岩場から、遠くが見渡せた。
歩みを止めた青年は腰を下ろして、眼下に霞む麓の街を眺めながらお茶を飲んだ。

気温もぐっと上がり、木漏れ陽がはらはらと散った山道に、先日のような雪はもう見られない。
硬く閉じていた落葉樹の芽達も軟らかくほぐれて膨らみ、冬眠から覚めたばかりの羽虫達が数匹、光の中で鈍い動きのまま揺らいでいて。
春はもう山間部にまで登って来ているようだ。

誰もがこのまま穏やかな1日が続くと疑わない心地よさだったが、遥か西方の大地から黄砂を運んでくる強大な大気が、このまま黙っているはずがないと言うことは、山歩きが好きな青年にはよくわかっていた。
午後、荒れた風がやってくる前に南の尾根まで行こうと、リュックを背負い再び歩き出した。

ふぅ

あの幽霊は今頃、月の船に乗って遠くへ向かっている頃だろう。
彼女は、ただただ一生懸命生に生きたんだな。

青年は、数日前に会った彼女のことを考えている。



その日もやっぱり穏やかで、冬の名残りというよりは春の始まりを感じさせるような午後だった。
小鳥の鳴き声、雪解けで賑わう沢が遠くで弾ける音、大小の帯になって落ちている軟らかい光。

一息に山の中腹まで歩いた青年は、少し開けた場所にある、今にも崩れそうな瓦葺きの小さな東屋に腰を下ろした。
辺りの常緑樹は空へと大きく手を広げていて、柱の苔に振れるとひんやりと滑らかで、手が湿った。
今までたくさんの人の休息を受け入れてきたのだろう。
大木を削って作られた長椅子や大きなテーブルは、古いとはいえ人が振れる部分は角がとれ、滑らかに黒く鈍く光っていた。

大きなリュックのポケットから図面と磁石を取り出し、そして向き直った時。
もう隣には彼女が座っていたのだ。

青年は驚いて声をあげそうになったが、落ち着いてそのまま図面と磁石、さらにお茶をテーブルに置いた。
昔から他の人達よりも多く『幽霊らしき人影』と遭遇していて慣れてはいたのだが、その登場にはいつも驚かされた。

気づけば小鳥のさえずりはいつの間にかなくなっていて、大きな常緑樹達は急に覆いかぶさるように背伸びをして光を遮っていた。
空気は冷んやりと重たく沈みはじめ、無風の中、漂うように佇む煙草の煙のような霧も出てきた。
北が分からなくなった方位磁石の赤い針は、ユラユラと円の中を回り漂っていた。
また、それらちっぽけな現象を抜きにしても、彼女が人間ではないと言うことはもうわかるのだ。

当然直視などできない、だけど不思議とその様子は見なくてもわかるのだった。
真正面ではなく左隣に座っている彼女は着物姿で、青年よりも少し年下、二十歳くらい。
現在よりも遠い時代の人物ということはその風体でわかった。
少し色褪せた橙の着物に真新しい眩しさのようなものはなく、しかしきちんと着こなされたそれは清潔で、柔らかな色合いだった。
彼女は、重ねた手をきちんと腿の上に置いて、姿勢正しく真っすぐに前を向いていた。

青年は、護符を取り出そうかと迷った。
しかし今時点、身の危険を感じる気配や様相は感じられなかった。
彼女は、過去数回の遭遇者達とは少し違った様子だった。

落ち着きを取り戻した青年は、そのまましばらく居合わせることにした。



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『幽霊とお化けと妖怪の違いについて議論しなさい』
学生の頃、ある授業の一場面を覚えている。

いつものお硬い授業とは打って変わって、みんなはふざけながらもこの議論についてに発言し合い、笑った。
そもそも、幽霊やお化け、妖怪などの実在や定義が不確かなものに対して議論が成り立つはずもないのだ。
しかし、教授の狙いはそこにあって、その不確かなものを自分たちで定義付け、議論してゆく過程に重きをおいていたようだ。
ところが、その時たどり着いた結論は意外に興味深いものだった。


お化けは、非科学的な動体(幽霊、妖怪)の総称である。

妖怪は、物や動物や人が化けていったもの。姿形がある。
人が見ていない所でもそれ単体で生活を成している。

幽霊は、人間の強い意識や魂。
人の元に現れ、接触を望む。幸せな幽霊は存在しない。

(上記はこの授業内での定義に基づく)

笑い合った結論だったが、『幽霊と思われる人影』を他の人達よりも多く目にする青年にとっては、なるほどそれは的を得たものだった。
確かに、青年は今まで幸せそうな幽霊らしきものを見たことがなかった。




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どれくらい時間が経っただろう。
青年は、お茶を進める時に初めて彼女の横顔を見た。
ふっくらとやさしい顔立ちは街の女性と何ら違いはなく、彼女は生身の人間なのではないかと疑う程に普通だった。
長くはない真っ黒な髪の毛は、きちんと後ろで束ねられ、簪(かんざし)によって留められていた。

彼女は前を向いたまま、小さく首を振った。
その時、ほんの少し口元に笑みを浮かべたかのようにも見えた。


つい先日、長寿をまっとうした。
若い頃に戦争で夫をなくしてから、女ひとつで子ども達を育て、涙枯れぬばかりの苦労をした。
しかしながらたくさんの人達に支えられ、胸に収まりきれない程の幸せも頂いた。
晩期は、子や孫達に囲まれて、総じて幸せな人生だった。

このまま向かわなければならないところへ向かうのだけれど、月の船は出たばかり。
新月まで少しばかり時間があるので、ここへやって来た。


穏やかでやさしい話し方には、親しみを感じる程だった。
両手をきれいに重ねて前を向いたままの彼女は、話を続けた。


この場所は、待ち合わせの場所だったということ。
波乱な時代ゆえに、生き別れたときはこの場所で、年に一度決めた日に落ち合おうと二人で決めたこと。
その日が7日後だということ。
愛する夫が、遠い南の国へ戦争に行ったこと。
そのまま帰ってくることはなかったということ。
はじめのうちは毎年その日になるとこの場所へ来ていたが、土地を離れてからはもう来ることがなくなったということ。
生活に追われ、苦労となんとかつり合うことのできた幸せとともに生涯を終えたこと。

「その旦那様との待ち合わせのことが心残りだったのですね?それで最後にここへ…」

それは違います。

青年は驚いた。
彼女が微笑んでいるように見えたからだ。

「心残りという程のものではありません。
年に一度の待ち合わせの日が来る前に、私は出発しなければなりませんし。
ただ時間がありましたので、ここへ寄ってみました。
私は幸せでしたし、何も思い残すことはありません。
新月がきますまで、ここに居ようと思っております。」


はたと、青年は自分の身体がどんどん冷たくなっているのに気づいた。
なんだか目が疲れてきたと思っていたのだが、それも違うようだ。
そこは昼間なのに、昼夜を問わない白黒のような空間になっていて、時間とともに視界がほんの少しばかり歪み始めていたのだ。
自分の手指や衣類も、ほとんど色みがなくなりかけていた。
そんな中、着物姿の彼女だけが橙色にぼーっと光を放っているのだ。

危険だと感じた。

急がなければならない。
しかし青年は、彼女に対して護符を使いたくはなかった。
けれども、自分がもうこの空間から容易に出ることができないということも分かっていた。

青年は、いつかのふざけた授業のことを思い出した。
幸せな幽霊は存在しない…。

「7日後の待ち合わせの日に、僕が代わりにここへ来ましょうか?」

青年の鼓動が大きく高まった。
彼女が初めてこちらを向いたからだ。

その顔は、落ち着いていた。
きれいだった。
若い女性に間違いはないのだが、時折ゆらゆらと揺れる水面の中で、おばあさんのような、子どものような、中年の女性のような表情にも見えるのだった。
まるで地面の苔と足がくっついていて、そのまま大地深くに根ざしているように。
佇んでいて、すっとこちらを見つめていた。

いったいどのような生き方が、彼女をこのような仏のような表情にさせたのだろうか。
包まれてしまった青年は、思わず会釈してしまった。

待ち人の名前と彼女の名前をメモしようとペンを取り出しそうとかがんだ時、大きな風が山肌を横切っていった。

青年は飛ばされそうになった地図を押えた。
そして振り向くまでもなく、彼女がいなくなったことを知った。
風が戻り、耳が戻り、小鳥達は枝と枝の間で呼び合い、テーブルの上の磁石の針はきちんと北を指して、全てが元どうりになっていた。

青年は暖かいお茶を入れて、しばらくの間、色を取り戻した世界の中で腰を降ろしていた。

夢だということにしておきたかったのだが、彼女が消えた後に残された簪(かんざし)がそれをさせなかった。
ところどころ漆のはがれた簪は、2つの小さな毬(まり)が付いていて、クルクルと回せばその毬は元気にぶつかり合った。

はぁ

やっぱり、また来なければだめか。

ため息と笑いを同時に吐き出してお茶を飲み干した。



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彼女の話による7日後とは今日に当たる。
正午くらいから風が吹き始めたが、なんとか南の尾根に回り込み、春はより強く穏やかさを与えてくれている。

幸せな幽霊はいない、か。

ただ、ふらりと寄ってしまったんだな。
ちょっとばかり、気になっていたんだろう。


しかし、なんでそこにタイミングよく自分がいるかな。
変な頼まれ事まで受けてしまうし。
これでもし、本当に待ち人がやって来たらいったいどうすればいいんだ。

ふぅ

渡すしかないか。


キャベツ色の新芽がたくさんの光を浴びてこんこんとしている落葉樹の道が終わり、柔らかな木漏れ陽を柄にした山道が再び上りに入った。

この坂を上り切ると、開けた待ち人の東屋がある。
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by KeN-ArItA | 2009-03-24 00:40
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