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旧ありけん日記


2005年〜2022年5月まで、有田健太郎の日記、エッセイ、フォトギャラリーです
by KeN-ArItA

かたつむりランデヴー『梅雨入り宣言』(後編)

次の日、目覚めたタケシは、カーテンの隙間から漏れる光に敗北を予感した。

ツバメの鳴き声に、車の走る軽い音。
窓を開けるとやっぱり、快晴の空が街に朝日を投げかけていた。

はぁ

もしあのとき『梅雨入り宣言』を発令していたら、クレームの電話がなりっぱなしだったろう。

「梅雨入りっていうからボーリングにしたのに、この天気じゃやっぱりバーベキューにすればよかったじゃないか!
今からバーベキューセットもって河原へ来い!」とか。

「あのさぁ。梅雨って、雨に梅って書くんだぜ。
窓の外みてみろ。晴れてんじゃねーか!」とか。

天気予報課は梅雨に関するクレームがあると、すぐに梅雨課へ切り替えるので、考えただけでもぞっとした。


地下鉄の大手町駅を出て、雑踏。
見上げる空にため息とカフェラテを持ち、タケシは庁舎に向かった。

「おはようございます…」

梅雨課はいつもと変わらずそこにあり。
山さんは競馬新聞を、絵美はネット通販で夏服ファッションを見ていた。

山さんは、明朝に中部、四国地方の梅雨入り宣言発令許可も出したらしく。
この部屋で唯一立派と言える、電光式の日本地図のボードの中部、北陸地方から下は、全て赤く点灯していた。


昼休み、屋上へ出たタケシは山さんを見つけた。

大小さまざまなビルが立体的なパノラマを作り上げていて、白シャツでタバコを吸う山さんはひと際凛と映え、この場所がビル群と低気圧の中心にあるように思われた。

「おれ、昨日は生意気言ってすみません」

タケシは目を合わさず少し離れて並んだ。
はっきりと耳には聞こえないのだが、都心奥底のエンジンが回転しているゴォーという周波が風に乗っている。

「風が変わったな。
気圧が谷を越え始めたぞ」

見上げればそこに朝の晴天はなく、蛍光灯の明かりような曇が流れ始めていた。
雲は、膨れたり縮んだり、千切れたり引っ付いたりしながら、だけど確実に増幅しているように見えた。

「タケシ…お前、雨のにおいを嗅いだことがあるか?」

「雨のにおいっすか…
自分はよくわからないです」

「衛星写真に過去のデータ。コンピュータ予測にクレームを恐れた曖昧な発表。
俺たちは、そんなつまらない仕事をやっているのか?」

やまさんの吐き出すタバコの煙は、風に白という色を付け、ばあっと東に流れた。

「おれは昔から空が好きだった。
雨や晴れ、かすかな晴れ、かすかな曇り。
台風に、梅雨、積乱雲にいわし雲。
同じ空は一度だってない」

くるりと向きを変え、手すりに背をもたれた山さんはゆっくり続けた。

「小学高の頃な。遠足があったんだ。

日頃、出張で家にいないおやじが珍しく参加することになっていて、
おれはすごく楽しみで、浮かれていた。

だけど当日の朝、雨が降ってた。

おれは、朝早くから外に出て、ずっと空を見ていた。

この雨は止む。
根拠はなかったが、日頃から天気を読み当てるおれには、自信があったんだ。

おれは、おやじや先生に、『雨は止みます』と何度も何度も言った。

だけど、終日の雨を強く予報した天気予報を信じた大人達は、疑わず遠足を中止にしたんだ」

こんな顔もあるんだ。
タケシは、山さんのやさしい横顔の雰囲気に驚いていた。

「…そのあと、天気は、どうなったんですか?」

「1時間後、雨は上がり、午後からは少しずつ陽がさしてきた」

「山さん、昔から感が鋭かったんですね」

フフっと顔を緩めた山さんは続けた。

「おれは悔しかった。
遠足が中止になったことよりも、適当な予報を出してそっぽを向いている天気予報が許せなかったんだ。

そして…、その時決めた。

おれが日本の天気予報を変えてやる、ってね。

人間だって自然だ。
おれは大地の一部になって大気を読む。

タケシ、データは大切だ。
だがまず、五感で感じてみろ」

潤んだタケシの目に、形を変えながら流れてゆく生き物のような雲が映っていた。

「雨のにおいがする。
お前はもうしばらくここにいろ」

そう言い残した山さんは、携帯用の灰皿に吸いかけのタバコを押し込み、屋上の扉へと去って行った。

かたつむりランデヴー『梅雨入り宣言』(後編)_e0071652_18513270.jpg


絵美のデスクに置いてあるラジカセ。東京FMは雰囲気のよいソウルミュージックを流していた。

バタバタと階段を駆け下りる足音が近づいてきたのは、15時近く。

「山さん!雨っす。雨が降ってきました」

腕を組んで窓の外を見ていた山さんの後ろ姿は、真っ白い外からの光に、より輪郭を増していた。

「お前はどう思う」

ひとときの間の後、タケシは思い切って言った。

「梅雨入りです」

くるりと振り返った山さんは、にっと片口を上げ腕時計を見た。

「14時54分、梅雨入りだ!」

この一瞬の為に設置されたといっても言い過ぎではないこの部屋は、完全に一つとなった。

「14時54分、梅雨入り!」

きりりと復唱したタケシは、カモシカのように梅雨課を走り出ていて、扉にはもう残像しかない。

また、普段は急ぐ動作など一切見せない絵美も、パタパタと小走りに壁際の小さな扉を開けた。
中には赤いボタンが二つあり、一つのボタンには『梅雨入り』と書かれてあり、もう一つのボタンには『梅雨明け』と書かれてあり。

絵美はもう一度山さんを見返す。
にっと笑ってうなずく山さんを確認すると「えいっ」と『梅雨入りボタン』を押した。

日本地図の電光掲示板の関東地方が次々に赤く点灯し、『関東地方梅雨入り宣言発表』というドットの赤文字が右から左に繰り返し流れていった。

その後、パソコンに向かった絵美は、いつもの仕事ぶりがウソと思われるくらいのスピードで、まるでたくさんの泡が弾けるような音をたてながら、各方面へ詳細を打信しはじめた。


一方、タケシはというと、14階の天気予報課へ向かって階段を駆け上っていた。

電話で知らせてもよいのだが、発表を今か今かと待っている天気予報課への影響は大きく、そのため天気予報課だけには口頭で直接伝える、というのが代々の習わしとなっていたのだ。

階段をシュタシュタと二段飛ばしで駆け上がり、廊下を膨らんで曲がりながら、タケシは『走れメロス』を想う。

「きゃっ」
盆に2つのお茶を乗せたOLは、驚いて壁に身をかわす。

おれは、『走れタケシ!』だ。

バターンと勢いよく開けられた天気予報課のドアの前には、はぁはぁと息を切らしたタケシが腰に片手を当てて立っていた。

大勢の職員は、そのタケシの姿を見てすべてを悟った。
そして、そのまましぃんと言葉を待った。

そう、それは梅雨課のたった2つしかない仕事のうちの1つだとみんな知っていたからだ。

「どうも、はぁ。梅雨課の、はぁ。岡島です」

息を直してタケシは声を大にする。

「6月3日、14時54分。梅雨入り宣言、発表されました」

「ごくろうさまです!」

誰かがそう言うと、天気予報課はまるでアメリカ戦闘映画のファイナルシーンの様に『うわぁー』と盛り上がった。

「14時54分、梅雨入り!」
「14時54分、梅雨入り宣言発表です」
「了解!14時54分、梅雨入り」
「14時54分、梅雨入り確認しました」
「14時54分、梅雨入り確認!」

復唱が復唱を呼び、天気予報課は一瞬にして活性化され、それぞれが担当する各メディアに伝達を始めた。

タケシは自分の仕事が一区切り付いた安堵感に顔を緩め、「どうぞ」とOLから渡された、課長のデスクに運ばれるはずだったお茶を一息で飲んだ。

かたつむりランデヴー『梅雨入り宣言』(後編)_e0071652_18235122.jpg


次の日、東北地方でも梅雨入り宣言が発表された。

その夜、久しぶりに梅雨課の3人での打ち上げとなった。

『赤ちょうちん』は相変わらずサラリーマンの愚痴で活気づいていて。
タケシは早々に酔っていて。
映りの悪いテレビのニュースで『梅雨入り』について報じられる度に、タケシは「あの梅雨入り、実はおれ達が出したんすよぉ」と他のテーブル客に振れていた。

今年の梅雨の雨量予想や、タケシの冷夏説。
山さんの若い頃の失敗談に、絵美のコンパでの最悪話。
タケシの悪酔いに、今後の梅雨明け予想。

その絵は、本当に、ごくありふれた仲のよい職場の飲み会であった。

他愛もない話であっという間の『赤ちょうちん』を出た3人は、駅に向かった。
降り続く小雨は梅雨らしく、このままずっと止まないのではと思う程安定していて。


ガラゴロと山手線が通り過ぎてゆき

路肩には壊れて捨てられたビニール傘

テン、テン、テン、と水たまりを飛び越しては、クルクルと傘をまわす絵美

青信号とともにシャー、シャー、と長い尾を引いた車が行き交い

酔いも落ち着き、どこでうつったのか、調子っぱずれな『天城越え』を口ずさむタケシ

やっとライターを見つけて、青白い煙を一気に吐き出す山さん


1年のうちこの季節だけ集まる3人は、しっとり肌にまとわりつく雨の粉をも満喫しているようだった。

「やまさーん!明け宣(梅雨明け宣言)はおれに任せてください。おれ、自信がありまーす」

手を上げて銀座線の階段を降りようとする山さんに、タケシは叫んだ。
にっと片口を上げた山さんは、もう一度手を上げて段々と地下へ消えた。

またしてもデートの誘いを、言い終わる前にさらりとかわした絵美も、バックをクルクル回しながら中央線の階段をパタパタと上っていった。



雨の粉で柔らかくなったパチンコ屋のネオンの明かりが、後ろで行ったり来たりしている。

タケシは傘の先から滴る、なかなか切れない雫で、プラットホームにマルを描いている手を止め。

すうっと見上げた空に、雨のにおいを嗅いでみた。





『梅雨入り宣言』 おわり



                                 完全にフィクションです
by KeN-ArItA | 2008-06-09 01:27
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